昭和54年05月02日 朝の御理解



 御理解 第46節
 「痛いのが治ったのでありがたいのではない。いつもまめながありがたいのぞ。」

 こういう信心が、あぁ分かったらもういつも、お徳を受けることになるでしょうね。何か問題がある。難儀なことがある。「さぁこれでひと徳受けるぞ。これを本当にそれが神愛だとして、受けれるおかげを頂いて、この難儀な問題を通して、お徳を受けるぞ。」と、何かこういつも気張ったものが感じられますよね。けれどもお道の信心の、まぁ神髄と申しますか。先日甘木の教会で幹部の方たちの研修会ありました。もう幹部というても、北九州に、まぁわずかしかおられないという幹部です。
 ここでは秋永先生日田の綾部さん、すと正義先生そうすっと秋山和枝さん。合楽からまぁ四名の方たちが出席して、まぁおかげを頂いておりましたが。本郷の樋口さんが見えておったそうです。本郷の先生の講師で、まぁ応援のようにして見えとったんでしょうね、親教会でもありますし甘木が。それでその樋口さんの話しを聞いたが、「もうなんというても、金光様のご信心は、『今日ある』ということ。
 それは例えば、痛かってもかゆかってもね。『今日私がここにある』ということが、有難いと分かるのがお道の信心の根本だ。」という、その話しをされたそうです。流石にもう大方あっちやら、もう八十以上でしょうねぇ。樋口さんが見えとったんでしょ。そんことを秋山さんからか、私聞かせて頂いて、その根本のところを間違えていない、ね。ですからやはり、あの年をとられても矍鑠として、まぁ御用がでけておられるんだというふうに思うんですけれどもね。
 昨日毎月、月の一日と月に二回位参られるでしょうか。三潴の方から元ご主人は城島警察の所長をされたという剣道七段、もうそれでもやがて、おばあちゃんがもう九十からですから、もう六十から以上なられるのじゃないでしょうか。頭がこうはげっしまっとる。はぁ体格のええ方が。もう合楽に縁を頂かれて二年位になりますでしょうか。もう必ずきちっともうそれこそ、元気ござるならあのお参りをなさる方なんです。もう必ず自分たち夫婦で、そのもう九十にもなられるだろうかという。
 そのおばあちゃんを、伴のうてお参りになるんです。時にゃその孫さんや子供さんも連れて、あのう一家をいわば、あげてお参りをされます。おかげを頂いて合楽にご縁を頂くようになってだんだんと、まぁおかげを頂かれて、まぁどっかあちらで長年信心の、まぁ稽古というよりも信心をされておられた。その九十になられるおばあさんがね、「合楽に参って来る様になって、信心の稽古がでけるようになった。」っち言われる。もう私、もう朝目が覚める時にとにかく有難い。
 ここで御理解を頂いてもう本当その長年、信心の基礎というものがあるから分かるんです。もうそこが痛いここが痛い。腰が立たんって、なんかタバコかなんか売っておられる、お酒屋さんらしいですけど、タバコを売っておられるらしいけれども。タバコの番はそのおばあちゃんがなさるそうです。それで一つひとつが、時にこうして取ってあったのが、今は腰を上げてその取ってやる事が、出来る様になって「もうこげな有難い事はございません。」と言うて、昨日もお参りその事の御礼を言っておられます。
 「本当にあれを頼んどったら成就した。この事もお願いせなならんけん、お参りをする。」という時代を段々通らせて頂いて、段々おかげを頂いてここで頂いた御理解が、なにか知らんいうなら感じられた。ね。そこから今日いわば「あそこが痛いここが痛い。」と言いよった、腰も立たなかったのが腰が立つようになり、スーカスーカ歩るく事もでけられるようになり、おかげでそのタバコのお店ばんをされるのに、もうこうしなきゃぁ「そこにあげてあるけん取ってくれんの」っち言う様な事だったそうです。
 けれども「この頃腰を上げて、そんいちいち取ってあげるようなおかげが頂かれる。」というて、御礼を言っておられます、ね。そういういうならば、本当なことが分かる。「天地金乃神様のおかげを頂かなければ、私共ここ一寸動かれない」ということは、いうならば、恩恵を受けなければでけないということは、信心がない者でも分かっとる人は、分かってる。また聞いただけでも、本を読んだだけでも分かる。ね。
 けれども昨日の御理解じゃぁないけれども、ね、ただ「『天地が私共が拝んでおる神様だ』と言う事が、分かるだけじゃぁなくて、その天地の神様との関わり合いが分かり、天地の親神様のお心が分かり、お心に添わせて頂く生き方にならせて頂いたら、今まで気付かなかった所に、おかげを感じるようになった。」というのです。そしたらもう九十にもなるおばあさんが、「あそこが痛い。ここが痛い。」と言う事もなくなって、おかげで歩くとも、スカスカ歩かれるようになり、もう座ったぎりのですから。
 腰をあげて、お客さんに応対ができれるように、はぁ気分ももうとにかく、二人の歳をとった、あのう老夫婦を後ろに従えて、自分が正面に出て、そしてちゃんとお届けをされるです。ね。また本当にあのう息子さんたちご夫婦も「素晴らしいなぁ。」と思う。老夫婦二人で、そん九十になるおばあちゃんを真ん中にしてね、もう本当にあのう、大事にしておられる様子が、伺われるんですけれども。おかげを頂いてそれこそ「痛い痒いのが治ったのが有難いのではない。「いつもまめなのが有難いのだ。」と。
 「なんでもないことが有難いのだ。」と分かったら、その痛い痒いまでがおかげを頂いた。」というおかげである。こりゃ夕べ月次祭に、ある方が参ってきてから、この頃からいつも敬親会に見えるのに見えてなかった。したら昨日、敬老会ですかね町での、「その花見がある。」というてふれが回ってきた。そしたらもう合楽に参るとに、もう今日はなんとか、かんとかして参りよったがもう、ね、その花見っちいうたら、もうてんで喜び勇んでから、用意してから表まで出たとたんに転ばっしやった。
 それも転げ方が「ぎゃふん」っちいうごと、転ばせよったごたるふうじゃん。それで「もうひざが痛とうしてどんこん行かれん。」っち、「とううとう花見にも行かれんじゃった。」というお届けが、夕べございました。どうでしょうかみなさん。そら、熱心に信心した人です。そりゃぁもう「こんくらいのことなら、もう朝参りどんさしてもろうて、こげな修行させてもらうなら、すぐおかげ頂く。」っちいうぐらいに、ひとつの確信に満ちた時代もあられたんです。
 けれども、その「信心がひとつも分かっとらん」という感じです。「ほんに昔はおかげ頂きよったばってんか、もう歳を取ったけんだめだ。」っち。そうじゃぁないですよね。歳を取れば取るほどに、それこそ位が付き有り難うならせて頂けれる。そういう信心をです、私はいわゆる身に付けておかなければならんのですけれども、その根本になるものは、私はこの四十六節だと思う。ね。お参りすりゃぁもう、こんな「なにか面白いことが」っちいうなら、「ハッ」ともう勇み立ってお参りをする。
 もうその方もやがて、九、八十九でしょう。だから私はどうでもそら一生懸命参りもしました時代があっただけじゃぁなくてね、その一生懸命お参りをした、しておる時にです、いうならば、ね、もう座っとてもお徳を頂けるような信心に育っとかなければだめだと。四十六節ということは、いうならまいつも六でいつもお徳を受られる信心。ね。それは「今までは気付かなかったけれども、あれもおかげであった。これもおかげであった。今日目が覚めたということ。
 こりゃ大変なもう大不思議だ。」と。目が見えておる手が動いておる。そのことに御礼が言えれる、いうならば信心をいよいよ、身に付けておかなければいけないと思うんです。昨日、私その二人のお年寄りのことを、朝と晩にお届けさせて頂いてから、今日この六、四十六節を頂きましたら、その二人のことを頂くんです。ね。とにかくやはり、金光教の信心の根本。それは今日私がここにある。それはどういう難儀を抱えておっても、「今日私がここにある」ということが「有難い」と分かる。
 それが信心の根本だと。この根本がいわばなくて、「中途半端な有難い」ということであったら、ね、それは段々年をしたがえに、従って「若い時にゃあ、あげな修行もできた。あげな修行もでけた時には、本当にめざましいおかげも頂いたけれども、ね、修行ができんごとなったら、ぱったりおかげが頂けんごとなった。」と言う様に、年を取るにしたがって、さみしゅうなって来る事になるのです。ね。もう「歳を取ればもう一年一年有難うなってくる。」という信心のその根本は四十六節である。ね。
 そこがでけておれば、例えお参りができなくても、修行ができなくても、日々お徳を受けてゆく信心がでけるということでございます。ね。昨日今度学院を一緒に、ここの方と出られたってという、あちらは安芸か。安芸の国というから、安芸っていうところね。安芸にやっぱり本郷という教会があるそうです。その安芸の教会の若先生でしょうか。昨日お参りになってみえました。
 それでここいわゆる、あのう御理解感話の、あれを求められたのでしょう。それを持って、ここへ「これに先生何か一筆書いてください。」というて言われますから「あぁそりゃなんと書いてあげようか。」とこう。したらこの頃光昭があのう頂いたという『天は捨て身地は受け身』と頂いた。というんです。ですから結局こういう信心をさせて頂けば、神愛が分かってくる。
 一切が神愛と分かる。と思うたから「一切神愛」と書かせて頂いた。そしていわばここで、まぁ学院中に、まぁ合楽の信心は、大体は知っておられると思いますけれども、ね。その「一切が神愛』と分からせて頂けれる信心を身に付けておきたい。そのにはね、やはり天は捨て身である。もういわゆる、私は限りなく美しゅうなるという。もう捨て身ほど美しいものはない。地は受け身である。
 いわゆる黙って受けるという、どろの信心である。そういう信心修行がいつもでけておるならですね、もうそれこそ自ずと自分の心の中に「一切が神愛。それもおかげ、あれもおかげ」と分かるだろう。ね。そこから私はいうなら、根本的な信心を基礎に土台にしての、いよいよ一年一年有り難うなっていく。歳を取るほど、位が付くと言う様な、おかげにも触れていけるというふうに思うんです。
   どうぞ。